euphoria

音楽と人生と情緒

scene

 

ネタバレは基本的に大丈夫なタイプ。というかあまりこだわりがない。アニメとか映画とか、まあされないほうが楽しめるけどされちゃったらされたで大丈夫かなーという気持ち。最初にそのことを明確に意識したのは約二年前、バイト先の先輩に勧められてジョジョを見ていたとき。会話の中でさらりと「このあとシーザー死ぬんだけど」と言われたその瞬間は頭を抱えたのちなんてこと言うんですか!ネタバレやめてください!と怒った記憶がある。その後、いざ該当話まで見進めると、最終的な結果は知っていたって、それまでに至る過程も、絶命シーンも実際目にするのは初めてなわけだから、ワクワクドキドキハラハラそして号泣までしっかり心を動かし尽くせた。あの経験を機にネタバレに対して寛容になった。もしかしたら「ネタバレに対し」というよりも「ネタバレしちゃう人に対し」かもしれないとも思う。ネタバレされてもわたしは気にしないし楽しめるから大丈夫ですよ、という余裕が生まれたのかも。

 

 

世の中にはネタバレ断固禁止派の人もいるけれど、自分が見たことのない映画やドラマに関して話を聞くという場面ではネタバレは必須になってしまうのではないだろうか。誰かに好きな映画の話を聞くときに、絶対にネタバレなしで!という制約をつけてしまったら、その人は満足に作品の魅力を語り尽くせなくなっちゃうんじゃない?という話。事前に考えてくる時間があるならまだしも、人対人の日常会話ではそうなることが多いのではないかな。わたしは、ネタバレも顧みず、その人が本当に心を動かされたというシーンや展開、セリフやテーマの話を存分に話してもらったほうがその作品に対する興味が湧く。なんだって具体的じゃないと判断しづらい。

 

それは自分の人生も同じかも。なんて、浅い眠りから醒めぼんやり冴えた頭で考える。目の前にあるすべてのこと、曖昧なままだとか、自分の努力次第だとか、そういうのやめて全部最初からある程度答えがわかっていたらいいのに、などと。「あなたは3年後この会社で働いています」と言われたとする。それが楽しそうだと思うところでも、なんでここで…?と思う場所でも、どうしてここになるんだろう?という疑問を持てる限り飽きてはしまわないと思う。「○月×日こういった出会いがあった結果そうなります」まで説明されてしまったとしても受け入れらると思う。それはワンシーンであって全てではない。一日ごとに「この日は何をして何が起きる」とバラされたらさすがにうんざりしちゃうけど、それぞれの出来事を前にした自分の感性はぶれなくリアルだし自分のものだ。

 

 

ここまでつらつらとそれっぽいことを書いてしまっただけで、実際のところ、この情緒のほとんどは一単語にまとめてしまえば “不安” だ。今のわたしには「明確なもの」が足りない。絶対なんてないけれど、絶対と言い切れるものがあると安心する。年が明けても変わりないペースで減りゆく日々に追い立てられる。今わたしの目の前で笑っているあなたの知り得ない本心が怖い。こんな弱気でめずらしい。早起きしてしまったから、今日は珍しく映画でも見てみようかと思う。